にいはま、いろいろ

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にいはま、いろいろ(7) 惣開(そうびらき)

星越トンネルを抜けて、下部鉄道は終点・惣開駅へと続いていきます。
現在は坑水路が残るのみで、そこに鉄道があったとは想像もできません。

 

惣開というと、現在の惣開小学校(イオンモールの西側)あたりを思い浮かべる人が多いと思いますが、
実際は海沿いの工場の多いエリアを指します。
ここは、幕末期に当時の別子支配人・清水惣右衛門(しみずそうえもん)が開発し
彼の名に由来して名づけられた土地なのです。

 

明治二十一年(1888年)、この地で惣開精錬所が操業を開始します。
これにより、それまでは大阪で行われていた粗銅の精製を
すべて新居浜で行うことが可能になりました。
また、銅山用の物資供給や銅輸送の拠点となっていた新居浜分店(旧口屋)が
同二十三年(1890年)には大江から惣開へ移転し惣開精錬所と合併、
新居浜製錬所と呼ばれるようになります。
同二十六年(1893年)には下部鉄道が通り、その後銀行や病院なども建設され、
惣開の地は工都・新居浜の本拠地となりました。

 

その一方で、煙害問題や労働争議が発生し
工都としての発展を遂げるなか新たな問題にも直面していきます。
良い意味でも悪い意味でも、人々の熱気に満ちた町だったのでしょう。

 

時代が明治から大正に移り変わるちょうどその頃、
尋常小学校を卒業したばかりの少年が、香川県高松市から新居浜へやってきました。
彼は当時金子村と呼ばれていたこの地で、十二歳にして左官職人に弟子入りします。
鉄道、精錬所、煙突、空を流れる煙。
その目にはどう映っていたでしょうか。

 

この少年が、弊社の礎となる米谷組を設立した、米谷忠重です。

 

K

 

参考:

歓喜の鉱山(やま)-別子銅山と新居浜- (新居浜市編)
産業遺産を歩こうマップ (新居浜市商工観光課)
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
新居浜の産業経済史 (新居浜市編)
新居浜の文化財 (新居浜市文化財保護委員会編)

 

別子銅山近代化産業遺産八十八か所 ふれあいめぐりあいガイドブック
http://nmh.hearts.ne.jp/MTM/guidebook/index.html

 

(2016.03.03)

住宅街に残る坑水路
惣開駅は現在の工場敷地内です

にいはま、いろいろ(6) 星越(ほしごえ)

下部鉄道の駅で唯一駅舎の残る星越(ほしごえ)には、
広大な社宅群がありました。
庭付き一戸建てが生垣で区切られている趣ある街並みは、
映画のロケ地になったこともあります。
現在ではその多くが取り壊され、一部が残るのみとなっています。

 

星越には、元々は水田と湿地帯が広がっていました。
それを尾鉱(*1)で埋め立て、区画整理するという計画を打ち立てたのは、
鷲尾勘解治(わしおかげじ*2)という人です。
住友に入社後、志願してまず坑夫として働くという
異例の経歴を持った人物で、
「地方と企業の共存共栄」を信念とし、
新居浜市の都市開発にも尽力しました。

 

この鷲尾という人は、
昭和二年(1927年)、別子の銅はあと十七、八年で尽きる、
というような発表をしました。
当然、企業も地元民も困惑したはずですが、当の鷲尾氏の考えは、
だからこそ、恩のある新居浜に
(銅山の)余命のあるうちに尽くせるだけ尽くすべき、
というものでした。

 

「地方と企業の共存共栄」のために鷲尾氏が取り組んだ事業は、
①新居浜に大きな港をつくること、②都市開発、
そして③地元民の意識を高めることでした。
都市開発では、まず星越から昭和橋までの道路をつくり、
さらに昭和橋から新高橋までの昭和通りをつくりました。
わずかな集落と水田しかなかった場所にできた大通りは、
当時としては異様な光景だったでしょう。
また、新居浜市民が心躍らせる太鼓祭りのときにはいまでも大賑わいとなる、
山根グラウンドとその石積みの観客席も、
鷲尾氏が中心となって建設されたものです。
これらの事業の多くが企業の社員による作務といわれる奉仕作業によって
進められたというから驚きです。

 

新居浜に尽くすだけでなく、
事業の発展を望むには、従業員の住宅を快適にする必要がある、として
昭和四年(1929年)頃に建設されたのが星越の社宅群でした。
当初は、沼地に住むなんて…、といった社員の声もあったようですが、
鉄道の駅と選鉱場とトンネルと社宅が広がる風景は、
地元の人から憧れのまなざしも向けられたといいます。

 

このように、新居浜市内のいたるところに
鷲尾勘解治の功績が残っていますが、
今回まで筆者はその名前もまったく知りませんでした。
子供の頃、友達の家を探して迷子になりかかった星越や、
当たり前に通っている昭和通りにも、こんな歴史があったなんて…

 

地元のことって、知っているようで知らないことばっかりです。

 

K

 

*1 選鉱で有用鉱物を採取した残りの、低品位の鉱石。
*2 文献によって、勘解治の読みが「かげじ」のものと「かげはる」のものがありましたが、ここでは「かげじ」としました。

 

参考:
歓喜の鉱山(やま)-別子銅山と新居浜- (新居浜市編)
[近代成金たちの夢の跡]探訪記 黄金伝説 (荒俣宏著)
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
社宅街 企業が育んだ住宅地 (社宅研究会編)
小説 工都(まち)の黎明(よあけ) (越智大円著)
とっておきの新居浜検定公式テキストブック (新居浜商工会議所)
鷲尾勘解治自伝 (鷲尾勘解治著)

 

別子銅山近代化産業遺産八十八か所 ふれあいめぐりあいガイドブック
http://nmh.hearts.ne.jp/MTM/guidebook/index.html
↑社宅群や山根グラウンドの写真もあります。

 

(2016.02.03)

駅舎だけが残る星越駅

にいはま、いろいろ(5) 新居浜の『珍百景』

新居浜市に、『珍百景』に選ばれた光景があるのをご存知ですか。
四角いコンクリートブロックが、
約10キロに渡って市内を横断している光景です。

 

これは、坑水路。
銅山から排出される鉱物を含む水を、
処理したうえで海に流すための水路です。
東平の第三通洞から端出場、
端出場から山根を経て新居浜に至る
総延長約16キロの坑水路が完成したのは
明治38年(1905年)のことでした。
(このとき完成した坑水路と現在見られる坑水路が同じ場所かどうかは、
今回筆者が目を通した資料からは判断できませんでしたが…)

 

この坑水路は、かつて下部鉄道(にいはま、いろいろ(3)参照)の
線路の脇を通っていました。
線路はもう見られませんが、現在も銅山からの水が流れているため
排水のための坑水路は残っているのです。

 

ブロックの継ぎ目がぼこぼこと出ていて線路のようなので、
筆者は子供の頃、これが線路跡だと思い、
この上をどうやって電車が通ったんだろう、と思っていました…
水路だったんですね。

 

線路跡には、今では山根地区から西の土居まで約10キロの
サイクリングロード(住友鉄道跡地自転車歩行者専用道路)が整備されています。
道沿いには、季節の移り変わりを楽しめる慈眼寺や
滝の宮大池や動物広場を擁する滝の宮公園があり、
サイクリング初心者にもおすすめの道です。
愛媛マルゴト自転車道というウェブサイトでは、
『ファミリー向けコース』として紹介されています。

 

サイクリングロードが終わったあとも、
坑水路のでこぼこブロックは沿岸部に向かって伸びていきます。

 

その道をたどっていくと見えてくるのは、
下部鉄道で唯一駅舎が残っている星越駅です。

 

K

 

参考:
歓喜の鉱山(やま)-別子銅山と新居浜- (新居浜市編)
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
産業遺産を歩こうマップ (新居浜市商工観光課)
別子銅山 三つの道と三人の先達(リーフレット)


愛媛マルゴト自転車道ホームページ
新居浜市公式ホームページ
正法山 慈眼寺ホームページ
ナニコレ珍百景ウェブサイト>珍百景コレクション
http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/110608.html

 

(2016.01.27)

サイクリングロードと坑水路
滝の宮公園の大池

にいはま、いろいろ(4) 広瀬歴史記念館

工都・新居浜の発展を支えた偉人に、
広瀬宰平(ひろせさいへい)という人物がいます。
住友家初代総理事で、
幕末・明治の動乱期に新政府による接収などの危機から別子銅山を守り、
その開発の近代化を推進した人です。
大阪財界の中心にあり、
当時は『東の渋沢(栄一)、西の広瀬』とも称されました。

 

その広瀬宰平の住宅と資料を展示した広瀬歴史記念館が
新居浜市上原の広瀬公園内にあります。
桜の季節には、お花見スポットとしても人気です。

 

平成9年(1997年)に開館した広瀬歴史記念館は、
南側に別子銅山、北側に新居浜市街を望む
大きな窓がとても印象的な建物です。
観覧料520円(中学生以下無料)で旧広瀬邸とあわせて見学できます。

 

館内には別子銅山の歴史や、
銅山のみならず日本の近代化のために奔走した
広瀬宰平の功績を示す資料が展示されています。
中には平成25年の大河ドラマに登場する新島襄や
現在、平成27年10月期の朝ドラに登場する五代友厚との親交を示す手紙もあり、
多くの新居浜市民は、“なんとなく名前を知っている広瀬宰平”という人が
日本の近代化を語るうえでいかに重要な人物で、
近代産業の発展のためにどれほど尽力した人かということを
改めて学ぶことができます。

 

続いては、旧広瀬邸。
こちらは「別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅」として
平成15年(2003年)には国の重要文化財にも指定されています。

 

明治10年(1877年)に建築、同20年(1887年)に現在地に移築された邸内には
主人のこだわりが随所に見られます。
自然光を好んだという広瀬宰平が居間に設けた天窓などは、
普通の和風住宅ではまず見られないものです。
西洋から輸入されたマントルピース(暖炉)や洋式便器など
西洋文化も取り入れた見所の多い邸宅ですが、
中でも一番の見所は、『望煙楼』と呼ばれる二階からの眺めでしょう。
“煙”を“望”むというのはあまり美しくないと思われるかもしれませんが、
広瀬宰平はここから沿岸の工場群を眺め
日々、銅山と日本の近代産業の発展のために思いを巡らせていたのです。
そう思うと、私たちには見慣れたこの工場の景色も
人々の思いや夢の詰まった美しい光景に見えてきます…

 

さて、来年、平成28年(2016年)1月3日のお昼12時には
この広瀬宰平らを中心としたドキュメンタリードラマ
『百年の計、我にあり』がTBS系全国ネットで放送されます。
もちろん、新居浜市や広瀬歴史記念館も撮影に協力されているようです。

 

どんな内容なのか楽しみですね!

 

K

 

参考:
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
住友の四阪島製錬所 煙害克服の歴史 (別子銅山記念館)
新居浜の文化財 (新居浜市文化財保護委員会編)
広瀬歴史記念館リーフレット

 


『新春スペシャルドラマ 百年の計、我にあり』公式サイト
http://www.tbs.co.jp/hyakunen-kei/

 

(2015.12.15)

広瀬公園内に佇む記念館と広瀬邸
国の重要文化財にも指定されています。
暖炉と天窓のある居間
望煙楼からは沿岸の工場も見えます。

にいはま、いろいろ(3) えんとつ山

マイントピア別子から一本道を下りてきた山の根っこ。
山根公園のうしろから、一本の煙突がにょきっと顔を出しています。

 

生子山(しょうじやま)にそびえ立つ旧山根製錬所煙突です。
新居浜市民からは「えんとつ山」の愛称で親しまれています。

 

古くは、豊臣秀吉による四国攻めの舞台でもあった、この生子山。
明治21年(1888年)には山根製錬所が建設されましたが、
煙害問題などからその7年後には廃止され、現在は高さ約20メートルの煙突だけが残っています。
この煙突は、平成21年(2009年)に国の登録有形文化財として登録されました。

 

弊社では、平成22年(2010年)~平成23年(2011年)にかけて、
煙突周辺整備工事及び煙突耐震補強工事を請け負いました。
煙突の周辺の広場を整備し、煙突そのものについては内側から補強する工事でした。
標高144.7メートルのえんとつ山の上までは徒歩でしか登れないため、
資材運搬用の索道(ロープウェイのようなもの)を設置しての工事となりました。

 

えんとつ山は、女性がざくざくテンポよく登って、15分程度なので
誰でも気軽に登ることができます。
まあまあの傾斜ですが、幼稚園ぐらいのお孫さん連れの方も登っていらっしゃいました。

 

山頂からは新居浜市内も一望でき、天気が良い日にはお弁当を広げるのも気持ちが良さそうです。
日頃運動不足の方にもオススメです。

 

K

 

参考:
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
新居浜の文化財 (新居浜市文化財保護委員会編)

 

(2015.12.4)

耐震補強工事の様子
遠くからもよく見える現場でした。
補強工事後の煙突
周りは広場になっています。

にいはま、いろいろ(2) マイントピア別子・端出場(はでば)地区

新居浜市の観光スポットといって新居浜市民が真っ先に思い浮かべるのは、
やっぱりマイントピア別子でしょう。

 

マイントピア別子のある海抜156メートルの端出場(はでば)地区は
物資輸送の中継地点として発展しました。
昭和5年(1930年)には採鉱本部が置かれ、
別子銅山の歴史の中で重要な役割を果たした地なのです。

 

そこには、いまなお多くの産業遺産が残ります。

 

明治26年(1893年)に架けられたドイツ製の鉄橋や、
銅鉱石や機械等の運搬に使われた第四通洞、
明治45年(1912年)に設置された、当時としては東洋一の落差を利用して発電を行っていた
旧水力発電所跡など、いずれも歴史上とっても貴重なものばかりです。

 

また、明治26年に竣工した下部鉄道は、
この端出場から沿岸部の惣開まで10,461メートルを走っていました。
昭和17年(1942年)には新居浜駅との連絡路線も増設され、
物資の輸送だけでなく、人々の生活の足にもなっていました。
この下部鉄道は、昭和52年(1977年)に廃止され、
残念ながら、いまでは市内を鉄道が走る姿を見ることはできません…。

 

 

しかし朗報です!
なんとマイントピア別子では、その鉱山鉄道に乗ってかつての路線を走り、
別子銅山の歴史を体験しながら学ぶことができるのです。

 

自然の中でのバーベキューや砂金採りの体験もでき、
平成28年(2016年)には、露天風呂や岩盤浴なども楽しめる
温浴施設がリニューアルオープンされるそうです。
(なお、弊社はこちらの工事には携わっておりません。)
市内に住んでいると改めて行くことも少なくなりがちですが、
弊社専務は夏に家族4人で訪れ、鉱山観光を満喫したようです。

 

山々の色づきや季節も感じることができ、最近では県外からの観光客も多いみたいです。

 

新居浜の見るべきところは、まだまだありますよ。

 

K

 

参考:
マイントピア別子公式サイト
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
産業遺産を歩こうマップ (新居浜市商工観光課)

 

(2015.11.16)

マイントピア別子内の鉱山鉄道
当時の面影の残るトンネル
レンガ造りの旧水力発電所跡

にいはま、いろいろ(1) 別子銅山・東平(とうなる)地区

弊社の本社がある、新居浜市のことをすこし。

 

愛媛県新居浜市は瀬戸内海に面した工業都市で、
南側には、かつて日本三大銅山と言われた別子銅山が鎮座しています。
新居浜市が工都(こうと)として発展したのも、ほかならぬこの別子銅山のおかげなのです。

 

別子銅山のはじまりは、江戸時代、元禄3年(1690年)までさかのぼります。
切上り長兵衛さんと呼ばれた人が、
地表に露出している銅鉱石を発見したことから調査・採掘が始まり、
昭和48年(1973年)に撤退するまでの200年以上の間、多くの人が働き、
山には街が発展しました。

 

いまでも気軽に別子銅山のあとを見に行ける場所として、東平(とうなる)地区があります。
自家用車で訪れることも可能ですし、道が狭いので、
マイントピア別子からマイクロバスを利用することもできます。
天気に恵まれれば沿岸地域の工場、瀬戸内海とそこに浮かぶ島々まで一望できる、
空気の澄んだすがすがしい場所です。

 

ここでは貯蔵庫、選鉱場、第三変電所といったレンガ造りの建造物の跡や、
第三通洞、物資だけでなく人も乗せていたトロッコのような
人車(じんしゃ)を見ることができます。

 

また、かつての街の姿は東平歴史資料館で知ることができます。

 

二千人規模の劇場もあるような街があったにもかかわらず、
いまはその姿を見ることができない理由は、
ほとんどの建物が木造だったので、山火事防止のために取り壊してしまったからだそうです。
人々の暮らしの跡には木々が生い茂り、本来の静かな姿を取り戻しているようです。

 

東平地区はハイキング感覚で訪れることができますが、
もっとディープな銅山の史跡を巡ることができる登山道もあります。
新居浜市内の子どもたちは、小学校高学年でこの道を登り、新居浜の歴史を知るのです。
かく言う私も例にもれず登ったわけですが、当時の記憶はまったくありません…。

 

銅山の歴史を学びつつ、ハイキングも楽しめる東平地区。けっこう人気みたいですよ。

 

K

 

参考:
住友の四阪島製錬所 煙害克服の歴史 (別子銅山記念館)
写真と俳句でつづる別子銅山 森になった街 (夏井いつき著)
別子銅山 天空の産業遺産 マイントピア東平ゾーン (東平歴史資料館の入口で頂きました。)

 

(2015.10.21)

天気に恵まれるとこんな絶景が。
レンガ造りの貯蔵庫、選鉱場のあと。
第三変電所も静かに佇んでいます。
人車はなんと8人乗り!
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